父・明智光秀の本能寺の変
1582年7月1日)、織田信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、京都・本能寺に宿泊していた主君信長と後継者の信忠を襲い、自刃させたクーデター事件。暗殺事件との解釈もなされる。 当時、天下人の地位に最も近かった織田信長と嫡男であり後継者でもある織田信忠を、有力家臣の一人であった明智光秀が亡き者にするという、日本史上においても最重要事件の一つである。しかし、光秀が反旗を翻した原因については定かではなく、多くの歴史家が研究しているが、現在でも定説と呼ばれるものは確立されていない。光秀の恨みや野望に端を発するという説、光秀以外の首謀者(黒幕)がいたとする説も多数あり、日本史上の大きな謎のひとつとなっている。
天正10年(1582年)までに、織田信長は京を中心とした畿内とその周辺を手中に収め、天正10年3月に武田氏を滅ぼした。関東の後北条氏、東北の伊達氏、九州地方の大友氏は信長に恭順する姿勢を見せており、これで信長の目下の敵は、中国の毛利氏、四国の長宗我部氏、北陸の上杉氏、九州の島津氏となった。 信長包囲網の一翼を担い一時期信長を苦しめた毛利氏は、織田軍の将・羽柴秀吉の前に後退に次ぐ後退で勢力を失いつつあった。また上杉氏は上杉謙信亡き後、家督争い(御館の乱)と相次ぐ家臣の反逆によって疲弊しており、かつて関東・越後国から猛攻をかけ武田信玄を苦しめた強力な軍団は勢いを弱めていた。四国では三好康長が信長に属し、丹羽長秀の補佐を受けた神戸信孝が長宗我部氏との戦争準備を始めており、すでに織田氏が有利な情勢であった。九州は大友氏や龍造寺氏が信長に属する意志を伝えており、島津氏は単独で信長に対抗せざるを得ない情勢であった。 安土城を本拠に、柴田勝家・明智光秀・滝川一益・羽柴秀吉・織田信孝などの派遣軍と軍団長を指揮して天下統一を進める信長は数えで49歳であり、このまま順調に進めば天下は信長のものになると思われる情勢であった。その一方で、多くの兵力を派遣していたため信長周辺の軍勢は手薄であり、武田氏滅亡後は天下統一目前という楽観的な雰囲気で、畿内では信長、徳川家康とも小勢で移動していた。そこを織田軍の近畿管区隊というべき明智光秀の軍が襲撃したのである。
明智光秀は、武田征伐から帰還したのち、5月15日より安土城において武田氏との戦いで長年労のあった徳川家康の接待役を務めた。しかしながら、17日に光秀は接待役を途中解任されて居城・坂本城に帰され、羽柴秀吉援護の出陣を命ぜられた。解任の理由は、15日に秀吉から応援の要請が届いたためである。26日には別の居城丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めた。愛宕権現に参篭し、28日・29日に「時は今 天が下知る 五月哉」の発句で知られる連歌の会を催した。この句が、光秀の謀反の決意を示すものとの解釈があるが(下記動機と首謀者に関するその他の考察の項参照)、句の解釈は種々ある。これは西坊威徳院で詠まれ、発句を詠んだのが明智光秀であるから光秀が主客である。主催者は行祐が脇句を詠んでいるのでこの座の亭主、つまり主催者である。(明智軍記)光秀は元来、土岐の末裔である明智であるので、苗字を時節にかけ、この度本望を達したれば、私が天下を知る(治める)との心情を含めた大事の前の心境を吐露した物と解釈するのが一般的である。(明智軍記)
また、秀吉応援のために中国地方に出陣するのであれば、丹波亀山城から本能寺は全くの逆方向であり、1万3000もの軍勢を全く無駄に往復させるという、軍事上考えられない矛盾があるとの指摘がある。明智光秀は重臣斉藤利三等に命じ本能寺にお泊りになられる御公儀様(信長)に中国遠征における閲兵を受けるためと称して老ノ坂を下り左の洛中に全軍を3手に分けて進軍をさせた。桂川手前でおよそ1万の軍勢を残し、斉藤利三勢およそ3000を渡河させ洛中に向けた。(当代記)家臣たちは御公儀様(信長)の命令で徳川家康を討ち取ると思っていた。(本城惣右衛門覚書)
一方、信長は29日に秀吉の援軍に自ら出陣するため小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土城を発つ。同日、京・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った。同時に、信長の嫡男・織田信忠は妙覚寺に入った。翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いている。信長は安土で朝廷よりの任官要請(関白、征夷大将軍、太政大臣)をいずれも拒否しており朝廷は不安に満ちていた。つまり巨大な武力を持つ朝廷の家臣でもない者がこの時入洛してきたのである。
本能寺は無防備な寺ではなく、天正8年(1580年)年2月には本堂を改築し、堀・土居・石垣・厩を新設するなど、防御面にも優れた城塞としての改造を施されていた。2007年に本能寺跡の発掘調査が行われると、本能寺の変と同時期のものと見られる大量の焼け瓦と、護岸の石垣を施した堀の遺構が見つかっている。
同じ6月1日の夕、光秀は1万3,000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し京に向かった。翌2日未明、桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と宣言したという(元禄年間の『明智軍記』にある「敵は四条本能寺・二条城にあり」が初出だが、同書は信憑性が低いとされている)。江戸時代の頼山陽の『日本外史』では、亀山城出陣の際に「信長の閲兵を受けるのだ」として桂川渡河後に信長襲撃の意図を全軍に明らかにしたとあるが、実際には一部の重臣しか知らなかったとの見解が有力である。なお大軍であるため信忠襲撃には別隊が京へ続くもう一つの山道「明智越え」を使ったと言う説もある。またルイス・フロイスの『日本史』や、変に従軍した光秀配下の武士が江戸時代に書いたという『本城惣右衛門覚書』によれば、下級武士には徳川家康を討つものと伝えられていたことが窺い知れる。
6月2日早朝(4時ごろとする説あり)、明智軍は本能寺を完全に包囲した。
馬の嘶きや物音に目覚めた信長が小姓・森成利(蘭丸)に訪ね様子をうかがわせた。小姓衆は最初下々の者の喧嘩だと思っていた。だが「本能寺はすでに敵勢に包囲されており多くの旗が見えていた。紋は桔梗(明智光秀の家紋)である」と成利(蘭丸)に報告され、光秀が謀反に及んだと知る。成利(蘭丸)らは信長に対し、本能寺から逃れるよう進言したが、光秀の性格や能力を知っていた信長は脱出は不可能と悟り、「是非に及ばず」と言い放ち、弓を持ち表で戦ったが、弦が切れたので次に槍を取り敵を突き伏せた。しかし殺到する兵から槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念。女衆に逃げるよう指示して奥に篭り、信長は成利(蘭丸)に火を放たせ、自刃したと言われる。信長の遺骸は発見されなかった。
信長が帰依していたとする阿弥陀寺(上立売大宮)縁起によれば、住職・清玉が裏の生垣から割入って密かに運び出し、荼毘に付したとされる。この縁で阿弥陀寺(上京区鶴山町に移転)には、「織田信長公本廟」が現存する。しかし本能寺には堀と土居があり、この説は疑問である。また、この縁起「信長公阿弥陀寺由緒之記録」は古い記録が焼けたため享保16年に記憶を頼りに作り直したと称するもので、史料価値は低い。未発見の原因は、大きな建物が焼け落ちた膨大な残骸の中に当時の調査能力で遺骸は見つけられないという指摘がある。
一方、本能寺から200mの近辺に教会のあったルイス・フロイスの『日本史』では、「(午前3時頃と言われる)明智の(少数の)兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して(6月2日に御所前で馬揃えをする予定であったのを織田の門番たちは知っていたので油断したと思われる)、信長が厠から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。直後に信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら明智軍の兵達に対して応戦していたが、明智軍の鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。直後に障子の戸を閉じた(火を放ち自害した)」という内容になっている。
光秀謀反の報を受けた信忠は本能寺に救援に向かおうとしたが、既に事態は決したから逃げるように側近(利治・貞勝ら)に諭された。実際は包囲は十分でなく、織田長益など逃げおおせていた。しかし信忠は明智軍は包囲検問をしているだろうからと逃亡をあきらめて、守りに向かない妙覚寺を離れ、信忠の筆頭家老斎藤利治と京の行政担当者である村井貞勝らと共に二条御所(二条新造御所)に移った。そして信忠は何箇所もの傷を負いながら2人を切り倒し、少人数ながら抵抗を見せて三度も明智軍を退却させた。時間の経過とともに、京に別泊していた馬廻りたちも少しずつ駆けつけ、反乱の去就が危うくなってきた。明智軍は最後の手段で隣接の近衛前久邸の屋根から丸見えの二条御所を銃矢で狙い打ち、側近を殆ど倒した。こうして信忠は自刃し、火を放った。斎藤利治らは残りの兵と共に善戦したが討死、二条御所は落城した(『信長公記』、『當代記』)。
妙覚寺には、信忠と共に信長の弟・織田長益(後の織田有楽斎)も滞在していて、信忠とともに二条御所に移ったが、落城前に逃げ出し(『三河物語』)、安土城を経て岐阜へと逃れた。信忠が自害したのに対し、長益は自害せずに逃げ出したため、そのことを京の民衆に「織田の源五は人ではないよ お腹召させておいて われは安土へ逃げる源五 六月二日に大水出て 織田の源なる名を流す」と皮肉られたと言われている。
また、信忠が二条御所で奮戦した際、黒人の家臣・ヤスケも戦ったという。ヤスケはもともと、宣教師との謁見の際に信長の要望で献上された黒人の奴隷である。ヤスケは、この戦いの後捕まったものの殺されずに生き延びたが、その後の消息は不明である。
